27日の新浦安での「子育てメッセ」のシンポで伝えきれなかったこと。さらに思いついたことを書いてみます。

<しおちゃんマンは右から二人目>
この記事のタイトルの考え方が、こんにちの日本の学校の代表的な考え方だと思います。
また、最近の学校のタイムテーブルはハードです。その流れの中で、一人ひとりの考え方や願いはさらに "我が侭" だととらえられてしまいます。
一方で、教育基本法が改悪され、民主的な社会(国)をつくる子どもを育てるのではなく、国のために貢献できる子どもづくりが強調されるようになりました。そのための訓練が重視されることになります。
このような背景の中、日本の学校は成り立っている部分があるので、個性を認めない全体主義、訓練主義というふうにとらえられてもしかたがないし、そういった部分は多々あるのだと思います。
# 子どもが体ごと発信している学校に対する異議申し立て…、たとえば不登校問題にしても、子どもの我が侭、弱さとしてとらえる管理職があいかわらず多いことが残念でなりません。
個性や、自分とは何かを打ち出していく力、そして自分がどんなことに貢献できるかを(強制ではなく自分の気づきとして)発見し、取り組んでいく力、そしてそのために共同していく力を育てるのに、こんにちの学校の課題について目をつぶっていては先に進めません。なにしろ、日本の子どもたちの生活にとって、学校が占める割合はものすごく大きいのですから。
教師は、子どもの権利を認め、子どもに敬意を表し、謙虚でなければなりません。子どもを学校にどう受け入れるのではなく、自分たちが子どもの世界にどう受け入れてもらえるのかにもっと心をくだくべきです。
それは子どもの下に立つということではありません。指導・被指導の関係をつくっていく基本のスタンスであり、戦後日本の教師が、子どもに文章を綴らせながら、子どもの生活に注目し、そこから教育をスタートさせていった時代から、ずっと守ってきたものです。それが今まさにボロボロにされようとしている。
まだまだ自分にはやらなければならないことがたくさんあるような気がします。